第1回学習会 「基地問題」の基本学習①


 

 

 

学習会レジメより、憲法前文と

北朝鮮ミサイルのツイッター反応

1989年の高校生意識調査です。

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講師 岩国平和委員会事務局長 吉岡光則さん

1、基地の街の歴史の始まり

1938年 旧日本海軍が航空基地建設に着手(宅地1.3ha、農地121.7haを買収)
1945年 敗戦⇒「ポツダム宣言」に基づく日本の武装解除

9月、米海兵隊が進駐し、基地を接収 (敗戦時面積451ha)

 1946年  2月、英連邦軍(英空軍・豪空軍・英印部隊・ニュージーランド軍などの混成部隊)と米空軍が進駐
 1948年  英豪空軍基地に。コンクリートの新滑走路建設(⇒1950年キジヤ台風による錦帯橋流失の一因に)
 1950年  6月、朝鮮戦争勃発⇒英海軍・米空軍・米海軍などが国連軍として駐留。英豪空軍・米空軍が出撃。朝鮮半島への爆撃・支援・補給基地に。
 1951年  9月、対日講和条約・日米安保条約締結
 1952年  4月28日、対日講和条約・日米安保条約発効⇒英豪空軍は撤退し、米空軍の基地に。

岩国基地は、1938年から旧日本海軍が航空基地の建設に着手しました。面積は当時は表の面積くらいだから、現在は随分広げれているわけです。

1938年というと、昭和でいうと13年です。前の年、1937年、盧溝橋事件が中国で起きて、日中全面戦争に突入していくわけですね。その翌年です。

で、岩国平和委員会発行の「岩国基地Q&A」に書いていますが、故・河野勲さんから聞いた話ですと、1坪35銭くらいで買収されていた。地主を集めて海軍の大佐が来て、「日本は今、緊急事態なんだと。天皇陛下がお前たちに預けておかれた土地を御返し申し上げろ」といったそうです。

江戸開幕以前は、川下の中州がちょっとあったぐらいで、おおざっぱに言えば、今の山陽本線から海側は、工場地帯も、川下の蓮田も、ほとんど海だった。明治の初めまでかけて、干拓事業で陸にしていったんですね。

さて、日本は戦争に負けました。ポツダム宣言に基づいて日本の武装解除が始まるわけです。占領軍がど~んとやってきて、特に基地のある町にやってきて抑えたわけですが、岩国の場合、9月にアメリカ海兵隊がまずやって来たらしいですね。このとき基地は、すでに451haになっていました。

それから、翌年にはイギリス連邦軍が入ってきた。日本全体でいうと、だいたい西日本はイギリス連邦軍が中心だったようです。だから、私が物心ついた小学校初めころかな。今、中央幼稚園がこども園をつくっていますが、あそこは吉川さんの土地だったという話ですけれど、インド兵舎という長い兵舎が2棟くらいありました。

僕らが覚えている頃には、もう県の渉外課、基地とのやり取りをする渉外課の職員の住宅になっていました。インド兵舎というくらいだから、インド軍の兵隊がそこに居たんだなと思うわけです。それからアメリカ空軍もやってきたそうです。

1948年にオーストラリアの空軍が、コンクリートの新滑走路を建設しました。日本軍の滑走路は東西に滑走路を作っていた、それを今のように南北に作り替えたわけです。

その時に、砂利がいっぱいいるので、それを錦帯橋の川底からゴッソリ採っていったもので、キジヤ台風の時に、それが一つの原因になって錦帯橋が流された。というのは、のちに早稲田大学の先生が来て調べたと聞きました。

それから、1950年に朝鮮戦争が起こります。岩国からも、どんどん北朝鮮攻撃に行きました。これは、いろんな事件や事故があったことは、年配の方はご存知かもしれません。

私が一つ覚えているのは、夕飯を食べているとドカーンと大きな音が沖の方から聞こえて、「なんかやったぞ!」と裏山に上がってみると、基地の沖の空が真っ赤に染まって、サイレンを鳴らしながら車両が行ったり来たりしているのを見たことがあります。朝鮮半島から帰ってきた傷ついた飛行機が、基地にたどり着けず落ちたようなんですね。当時はまだ、第二次世界大戦で使った飛行機を使っていました。

そして、1951年9月に、いわゆるサンフランシスコ条約、対日講和条約が結ばれ、日米安保条約が結ばれました。そして、その二つの条約が、翌年1952年 4月28日に発効されました。

安倍総理は、この4月28日を「日本独立の記念日ということでお祝いしよう」と言いましたが、沖縄の人から見れば「屈辱の日」ということで、忘れてはいけない日ではありますね。

二つの条約が同時発効したんですね。岩国基地に来ていたイギリス連邦軍の軍隊は撤退しましたが、アメリカ軍は残った。これは歴史の中で、ひとつ大事な事柄です。

2.占領と日本の進路

さて、占領時代の問題がいろいろあるのです。

ひとつは、ナチスドイツが連合国に敗れて、ドイツが占領された場合と日本は違っています。連合国の占領といっても、事実上アメリカの単独占領だったわけです。そのため占領政策も、アメリカの国益が基本となっていました。

単独占領だったという例としては、マッカーサー連合司令官は、アメリカ軍の司令官の兼任です。絶大な権力を持って日本を支配したわけですね。

二番目として、日本が降伏して、アメリカの占領支配の基本方針はどうだったか?

降伏後におけるアメリカの初期対日方針(1945年9月22日)
占領管理の究極の目的は、日本が再びアメリカの脅威または世界の平和と安全の脅威にならぬよう、平和的かつ責任ある政府の樹立にある。その具体化として、軍国主義や超国家主義を排除し、政治・経済など各分野での非軍事化・民主化を推進する。

簡単に言うと、ポツダム宣言で掲げられたことが実施されようとしたわけです。アメリカの国益とポツダム宣言で謳われたことが一致、両立したんですね。

ひとことでいうと、政治・経済・文化あらゆる面で日本を徹底的に非軍事化する。そして、民主化を進めということでした。

参考:ポツダム宣言現代文訳の例 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm#potudam

ちなみに外務省のポツダム宣言仮訳がこちら これじゃ読めない(>_<) 外務省は現代文には訳してはくれないらしい

以後、「五大改革指令」とかいろいろ日本の専制君主的な仕組みだとか、法令だとかをどんどん取っ払っていくということがすすめられていくわけです。そして、行き着くところ明治憲法を改正して、日本国憲法が作られるわけです。

もう一つの問題は、アメリカとソ連は、戦時中は「ファシズムとの戦い」ということで手を携えていましたが、お互いに、睨み合ったり、腹を探り合ったり、いろんなことをやってきたわけです。

いよいよ日本が負けて戦争が最終的に終わったら、どれだけ自分が主導権を握って世界を動かせるか?ソ連とアメリカが丁丁発止(ちょうちょうはっし)となりました。

アメリカは、アジアに対してどのような姿勢で望んでいたか?

アメリカは、ソ連の隣の中国を重視していました。当時は、蒋介石の率いる国民党が中国の権力が張っていたので、これと手を組んでソ連と対峙する政策を考えていました。そこを足場にしてアジアにアメリカの覇権を広げていこうと考えていたのです。

 

冷戦の始まり 戦後、世界各地で共産党を中心とする革命運動が広がる。東欧ではソ連んを中核とする衛星国家が相次いで誕生
1947年3月 「トルーマン・ドクトリン」宣言(共産主義と戦う国々を援助する)
1947年6月 「マーシャルプラン」(マーシャル国務長官が、自由な諸制度・機構が存続できるような政治的・社会的情勢を作り出すヨーロッパ復興計画を提唱)⇔ソ連はこれを拒絶し、緊張激化
1947年4月 NATO(北大西洋条約機構)結成

⇔WTO(ワルシャワ条約機構)結成(1955年)

アジアでの冷戦状況の表面化 中華人民共和国の成立
 1946年7月  中国、国民党と共産党の内戦
1949年1月  中国共産党が北京に入城し、国民党が敗北し台湾へ
 朝鮮の南北分裂
 占領政策の変更  アメリカの従属的同盟国として復活強化させる政策へ転換
1948年10月 アメリカ国家安全保障会議(NSC)「日本に対するアメリカの政策についての勧告(NSC-13/2)」
再軍備の開始 1950年6月 朝鮮戦争勃発
1950年8月 警察予備隊令(ポツダム政令の一つ)

「日本の警察力増強に関する書簡」マッカーサー

①冷戦の始まり

第二次世界大戦後、世界各地でそれぞれの国の共産党などを中心とする革命運動が広がりました。特に、ヨーロッパでは、ナチスの支配に対するレジスタンス運動がありました。レジスタンスとソ連共産党が一緒になってドイツを降伏させたという経緯がありましたからね。特にソ連に近い東ヨーロッパでは、ソ連の衛星国家のようなものがたくさんできました。

そういう状況の中で、1947年3月に、アメリカのトルーマン大統領が「トルーマン・ドクトリン」を宣言しました。簡単に言うと、「共産主義と闘う国々を積極的に援助していきますよ」ということです。そして、マーシャルプランを打ち出して、戦争で荒廃したヨーロッパ復興計画を提唱しますが、ソ連はこれを拒絶して、アメリカとソ連の関係の緊張が増していきます。

1949年、アメリカ側はアメリカの援助を受け入れた国々を集めて、北大西洋条約機構 NATOを結成します。これに対して、ソ連側は少し後になりますが、1955年ワルシャワ条約機構 WTOというソ連を中心にした社会主義陣営の軍事同盟を作ります。アメリカとソ連の対立関係、これがいわゆる「冷戦」ですね。

②アジアでの冷戦状況の表面化

中国では1946年7月頃から国民党と共産党の内戦が続いていました。日本が中国を侵略していた戦時中は、何回か「国共合作」といって、国民党と共産党が手を組んで、日本の侵略に対抗したこともありました。

しかし、戦後、世界の冷戦構造の中、1949年1月に共産党が北京に入城して、国民党が内戦に敗北して台湾に逃げました。これでアメリカの思惑が外れてしまったわけです。中国を足場にして、アメリカの覇権を張ろうとした考えが上手くいかなくなってしまいました。

また、朝鮮半島でも、南北の分裂が起こりました。

③戦略政策の変更

アメリカの最初の占領政策は、日本を徹底的に「非軍事化・民主化」して弱体化、民主化するものでしたが、それを止めて、むしろアメリカの従属同盟国として復活強化させる必要があるということになってきました。

それによって、日本、沖縄(当時はアメリカの直接統治)、フィリピンという東南アジアに延びる島のつながり「島嶼連鎖線」を押さえて、この防衛線を拠点にして、中国・ソ連に対峙する体制をとろうということにありました。

「日本を全体主義に対する防壁にする」・・・ロイヤルアメリカ陸軍長官 1948年1月

アメリカでいう全体主義とは、共産主義の事ですね。

1948年10月、アメリカ国家安全保障会議(NSC)の「日本に対するアメリカの政策についての勧告」が打ち出されました。

当時のソ連の「共産主義勢力拡張政策」が世界の危機を生み出しているという情勢認識を前提に

〔1〕対日講和条約は非懲罰的なものとする、

〔2〕講和後の日本の安全保障のために警察力を増強する(警察予備軍の創設)、

〔3〕総司令部の権限を削減し、日本政府の責任を増大させる、

〔4〕対日政策の重点を経済復興に置き、「非軍事化・民主化」は中止または緩和する、など

対日講和条約は徹底的にやっつけるのではなく、日本を上手く取り込めるような形にしよう。かつて、第一次世界大戦後のドイツに対する講和条約はものすごく懲罰的で、ナチスを生み出す元になった歴史もあるのでしょう。

日本の警察力を増強する、つまりは日本を再軍備させようということです。

それから、日本政府の責任をだんだん増やしていこう。そして、日本の経済復興を早く進めよう。そうしないと目下の同盟国として使うにも役に立たないからですね。

こうして、当初の「非軍事化、民主化」はどこかにいってしまい、1950年6月に朝鮮戦争が起きた時に、マッカーサーが「日本にいるアメリカ軍は、全部国連軍として朝鮮半島に出動しましたから、留守になった日本の治安を守るため警察予備隊を作れ」ということになったわけです。

これが日本の再軍備の始まりです。当時、アメリカでも再軍備は、憲法違反だという認識はありました。だからこそ、ウソとごまかしで再軍備が始められたといわれているのです。

3.「主権の回復」と日本の進路

1)「日本国との平和条約」

サンフランシスコ講和条約、和訳では正確には『日本国との平和条約』と、条約辞典などには書いてあります。

サンフランシスコで開かれる講和会議に、「野党も含めた強力な代表団」を求められた吉田首相は、共産党を除く各党に講和会議全権への参加を呼びかけ、日本側から吉田茂(首相、主席全権)、星島二郎(自由党)、池田勇人(大蔵大臣)、一万田尚登(日銀総裁)、徳川宗敬(参院緑風会)、苫米地義三(国民民主党)の6人が全権を構成して出席しました。

そして、1951年9月8日に、サンフランシスコの陸軍第6軍司令部で、日本の全権6名全員が署名して調印し、1952年4月28日に発効しました。

①片面講和

この講和条約に調印したのは日本と48の国でした。本当は、日本と戦争状態にあった国は、59くらいあったはずなのでが、全ての交戦国との講和になっていないので「片面講和」といわれています。

サンフランシスコ講和条約の中身は、日本では2か月くらい前に国民も知っていたのですが、その短い間に、「片面講和」ではダメだろう。すべての国と講和すべきだという大議論がありました。「片面講和」か「全面講和」かと。結局、片面講和となったわけです。

何故か?

たとえば、日本の侵略の被害を一番こうむったのは中国です。台湾の中華民国にしろ、中国本土の中華人民共和国にしろ、これを講和会議に出席させるかどうかで、ソ連とアメリカが意見対立をして、結局中国は呼ばれませんでした。これは大変な落ち度、差別です。

ソ連をはじめ社会主義国になっていた国は、講和会議には出席したけれど、「中国が来てないではないか」「日本が独立してもアメリカが居座り続けるのではないか」ということで反対して、条約には署名しませんでした。

インドやビルマも日本の侵略の被害を受けた国ですが、「沖縄をアメリカは占領し続けるらしい」「アメリカ軍が日本に駐留し続ける」「中国の不参加」などで、招集されたけれど、会議には出席しませんでした。もちろん条約にも署名していません。

日本の植民地にされていた韓国は、一番の侵略の被害者なんだからと出席を求めましたが、日本政府が招集を強く反対し、出席できませんでした。

このようにさまざまな問題がある講和条約でした。

②基地問題にかかわる条項

サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)第一章 平和

第一条 【戦争状態の終了、日本国の主権承認】
(a) 日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(b) 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。

第三章 安全

第五条 【 国連憲章上の行動原則の受諾】
 (a)   日本国は、国際連合憲章第二条に掲げる義務、特に次の義務を受諾する。
 (i)その国際紛争を、平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決すること。
 (ii)その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使は、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むこと。
 (iii)国際連合が憲章に従つてとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合が防止行動又は強制行動をとるいかなる国に対しても援助の供与を慎むこと。
 (b)  連合国は、日本国との関係において国際連合憲章第二条の原則を指針とすべきことを確認する。
 (c)  連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。
 第六条  【占領の終了】
 (a)  連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、1又は2以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。
 (b)  日本国軍隊の各自の家庭への復帰に関する千九百四十五年七月二十六日のポツダム宣言の第九項の規定は、まだその実施が完了されていない限り、実行されるものとする。
 (c)  まだ代価が支払われていないすべての日本財産で、占領軍の使用に供され、且つ、この条約の効力発生の時に占領軍が占有しているものは、相互の合意によつて別段の取極が行われない限り、前期の九十日以内に日本国政府に返還しなければならない。

第5条のc項と、第6条のa項。ここは、実は学校でもあまり教えられていません。「サンフランシスコ講和条約で日本は独立を回復しました」というだけで終わるのです。本当はそれではいけないですね。

第5条c項とは、簡単に言えば、主権を回復した日本が、改めて再軍備をするだとか、あるいはどこかの国と軍事同盟を結ぶことなどを自由にやっていいよ、ということです。

第6条a項は、簡単に言うと、主権を回復した日本が、何処かの国と条約を結んで、その国が日本に居ることになってもいいよということです。

こういう条文が、ちゃんとサンフランシスコ講和条約に入っているのです。それに基づいて旧安保条約が結ばれるわけです。

2)日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。

無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。

平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。

これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。

アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。

よつて、両国は、次のとおり協定した。

第1条 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。

第2条 第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。

第3条 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。

第4条 この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。

第5条 この条約は、日本国及びアメリカ合衆国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が両国によつてワシントンで交換された時に効力を生ずる。

サンフランシスコ条約の場合は2か月くらい前に日本側に知らされ議論があったわけですが、この安全保障条約は、誰も知らされていませんでした。知っていたのは当時の首相、吉田茂だけでした。

サンフランシスコ条約を調印した5時間後に、吉田首相のみが署名したのです。他の5人の全権は何も知らされませんでした。国民も、こんな条約があることを調印した後知らされました。

吉田首相は、1951年11月16日の参院安保委員会でこのように弁明しました。

「これは全権団が署名することが望ましくあるのですが、しかし全権団の中には立場を異にしている全権もあり、又党内における議論の合わない、・・・国内の事情からして討議がまとまっておらない方もありますから、・・・便宜上、私が政府を代表して署名したものであります。」

アメリカの国防総省の報告書 1957年1月22日にもこのような記述があります。

「安保条約の条文は、1951年9月8日のサンフランシスコでの調印までは、ごく僅かの日米両政府関係者以外、誰にも知らされていなかった。もちろん、一般の国民はその内容を知る由もなかった。吉田首相だけが日本代表として調印したのも、残りの日本側全権使節は条約の内容を知っていなかったからだ。」

このように、非常にに姑息な方法で安保条約は結ばれたのです。

①前文・・・日本は再軍備の責任を負う

日本は武装解除されているので自衛の手段を持たない。まだどこかから攻撃されるかもしれない時に、それでは困るのでこういう条約を結ぶんだ。となどいろいろ書いてありますね。

日本は主権国家として、個別的自衛権も、集団的自衛権も回復したことになるんだけど、日本国はその防衛のための暫定的措置として、「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」

つまり、「日本は丸腰になっているので、守ってもらうためにアメリカ軍に居てくださいと日本が言ったんだ」という言い方なんですね。そして、アメリカ合衆国はそれに応えてやる意志があるよと。

前文の最後には、「米軍が居て守ってやるから、その間に日本は自分を自分で守れるようにしなさい。」という趣旨のことが書いてあります。

☆1950年 警察予備隊発足1952年 保安庁1954年 自衛隊

②第1条・・・アメリカ軍が駐留軍として引き続き日本に居座る⇒日本は、アメリカ軍に基地を提供する

何処にアメリカ軍が駐留するか?という基地の所在について、この条約には一つも書いてありません。岩国市の何処に基地を置くなんてことは書いてありません。つまり、アメリカ軍が望むなら何処でも作れるということです。これを、全土基地方式といいます。

アメリカ軍の駐留目的は?

☆「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」するため・・・「極東条項」(極東の範囲は?)

☆「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与」するため…日本がどこかから武力攻撃を受けたら守ってやるということですが、第1条を見ると「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。」とありますね。できる・・・つまり、義務ではないということです。

☆「日本国内における大規模な内乱および騒じょうを鎮圧」するため・・・「内乱条項」(主権侵害ではないか?)

 日本の島々は米国の極東での安全保障にとって極めて高い戦略的重要性を持っている。ソ連が仮に日本を支配下に置くことになれば、ソ連は続いて東方さらに東南アジアへの段階的前進をめざし、日本を西太平洋における米軍基地に対する直接の侵略基地として利用するだろう。

逆に言えば、米国の管理は直接あるいは間接に、ソ連に対し、侵略または防衛的行動のための戦略的基地を与えないだけでなく、戦争の場合、ソ連を早期に阻む戦略的前衛線としてわれわれが利用できることになる

1949年6月 アメリカ総合参謀本部報告書

上の報告書からもわかるように、この安保条約の目的は日本防衛が主眼ではなく、アメリカソ連封じ込め戦略のために在日米軍を維持するためのものでした。

③第3条 ⇒1955年2月28日『日米行政協定』調印

在日米軍を規律する条件については、別に行政協定を結んでやりますということです。今の日米地位協定ですね。

行政協定には、いろいろ問題がありますが、例えば、米兵関係者の日本での犯罪について、日本側に一切の裁判権がありません。

幕末に不平等条約を結ばれたという話がありますが、あれと全く同じでした。完全な治外法権でした。

④関連する秘密取り決め

その他、いろいろな秘密協定があったようですが、私も全て知っているわけではありませんが、ひとつ挙げると。もし、日米が一緒に戦争をやるということになったら、日本の部隊はアメリカ軍の指揮下にはいる。という秘密協定を結んでいます。

「日本区域において敵対行為又は敵対行為の急迫な脅威が生じた場合には、日本国政府及び合衆国政府は、日本区域の防衛のため必要な共同措置を執り、且つ、安全保障条約第1条のもkj敵を遂行するため、直ちに協議しなければならない」

⇒共同措置を執る際には日米統合軍と統合司令部をつくり、その司令官にはアメリカ軍人を据える。(外務省 1987年11月30日 解禁文書より)

⑤安保条約履行のための特別な国内法の制定⇒2つの法体系(憲法体系と安保体系)のせめぎ合いへ

安保条約を実際に実行していくために、日本国内法をいろいろ変えたり、作らなければならないという問題が出てきます。

これは、今の安保条約に関連して述べることになるかもしれませんが、膨大な法律がつくられます。たとえば、「何とか特別法」といってね。

「日本の法令がアメリカ軍には適用されない」といった趣旨の法令がたくさん作られます。「アメリカ軍は別の法律で守るんだ」といったふうに。

だから、日本の国には、それ以来、現在においても「憲法を実行していくための法令」の体系と、「安保条約を実行していくためのいろんな法令」が共存する変な国になったのです。そして、今日まで、ずっと「どっちが勝つのか。どっちが上か」というせめぎ合いを続けているのです。

3)日本の進路を決めた2条約

平和条約と安保条約、この二つの条約が結ばれたことで、その後の日本の針路が決められました。

①両条約セットで、アメリカの”ジレンマ”の解決

サンフランシスコ講和条約(平和条約)と安保条約はセットとしてとらえておく必要があります。先ほど述べたように、平和条約5条c項と、6条a項に基づいて、安保条約は作られました。用意していたわけですね。

アメリカの”ジレンマ”の解決とはどういうことか?

サンフランシスコ条約では、基本的に「日本の占領を解くよと。主権を回復させるよ。」となっているので、占領軍として来ていた軍隊は、遅くとも3か月以内に全て撤退しなければいけないことになっています。

ところが、アメリカはソ連や中国と対峙するために日本を足場にする戦略をとるため、日本から撤退したくないわけです。だから、講和条約によって日本を独立させるということと、アメリカ軍が引き続き日本に居ることの両方を解決するために行ったのがこの二つの条約のセットということです。そうして、アメリカ軍は、進駐軍から駐留軍と名前を変えて日本に居続けているのです。

②日本の進路は・・・アメリカ陣営についていく。

「近時不幸にして、共産主義的の圧迫と専制を伴う陰険な勢力が極東において、不安と混乱を広め、かつ各所に公然たる侵略を撃って出つつあります。…この集団的侵攻に対して日本国民としては、他の自由国家の集団的保護を求めるほかないのであります。われわれの、合衆国との間に安全保障条約を締結遷都する理由であります。」

サンフランシスコ会議における吉田首相の演説

「今日世界が、・・・共産主義と自由国家組織と相対立している。その間の関係がだんだん微妙になりつつある、あるいは苛烈になりつつあるということをよく申します。・・・そのいずれにつくか、いずれにもつかない中立の態度をとるということがごときは、日本の国民性もこれを許しますまい。のみならず、またこれは致すべきことではない。日本としてはあくまでも自由国家群に投じ・・・世界の期待に沿うためにも、自由国家群に対して共産群を排撃するという態度に出ずべきものだと私は確信いたすものであります。」

1951年10月15日 衆院本会議 吉田首相

4.現行・日米安保協約

1)安保条約改定へ

①旧安保条約は暫定的条約・・・本格的軍事同盟への準備を内包

その後、安保条約改定に向けて動きが進みます。

ひとつは、旧安保条約は暫定的な条約であったこと。本格的な軍事同盟にしていくための準備を内包する条約だったといわれています。というのも、日本側にもアメリカ側にも、旧安保条約をいつかかえなければならないという不満がありました。

アメリカ側の不満の一つの例として、バンデンバーグ決議というのがあります。

「継続的かつ効果的な目的および相互援助を基礎とし、かつ合衆国の国家的安全に影響のある地域的その他の集団的取り決めに合衆国が憲法上の手続きに従って参加すること。」

バンデンバーグ決議 (1948年6月1日 アメリカ上院決議)

「相互援助を基礎とし」という言葉があるように、アメリカにとって「いざ」という時には、相手も同じように戦ってくれなければいけない。お互いがお互いのために一緒に戦う態勢をもった国としか条約を結んではいけないというアメリカ議会の縛りに安保協約は反していたのです。「日本は丸腰だからアメリカが守ってやってもイイよ」となっているのですから。

日本側としては、先ほど、第1条で述べてように、アメリカが必ず日本を守ってくれるという保証はないではないか。基地を提供するだけなのではないかという不満がありました。

②改訂準備

1952年 8月 保安庁法設置=保安隊(アメリカ軍から貸与)・・・「新国軍の土台」
1953年10月 池田・ロバートソン会談・・・日本の防衛協力、愛国心・国防教育の重要性を確認
1954年 3月 MSA協定(日米相互防衛援助協定)←アメリカ”相互安全保障法”
1954年 7月 保安庁⇒防衛庁  保安隊⇒自衛隊(陸13,000  海16,000 空6,000)
1957年 5月 「国防の基本方針」→1958年から防衛力整備計画を発表

安保条約の前文に、「日本が少しずつでも自力で防衛できるような策を講じていきなさい」というような趣旨がありますが、それを実行に移していくわけです。

1952年8月に保安庁法を作って、「保安庁」を設置しました。そして警察予備隊を保安隊としました。この保安隊は、一定の装備を持つわけですが、具体的には兵器や装備などすべてアメリカから借りたものでした。

吉田茂首相は隊員たちを前に「日本の新国軍の土台となるものである」と演説しました。

警察予備隊の時も日本は武装解除されているので、アメリカ軍が兵器はもちろん、軍隊の編成から訓練から全てアメリカ軍主導で行われました。それをさらに増強したのが保安隊で、この段階で、すでに旧日本軍の実力を上回っていたといわれています。

1953年10月池田勇人(当時・自由党政調会長)と、ウォルター・ロバートソン国務次官補が会談して、これから日本はもっともっと防衛協力をし、愛国心を植え付け、国防教育を重要性を確認するとい共同声明を発表します。これから日本の教育の右傾化が始まります。

当時の日本国民は戦争の惨禍の記憶がまだ色濃く残っていて、戦争への嫌悪感が強かったため、これを何としなければならないとの要請をうけて、愛国心教育や国防の重要性を強調することが必要だったのです。

1954年3月MSA協定(日米相互援助協定)が結ばれます。これは、アメリカの相互安全保障法という法律に基づいて作られた取り決めで、アメリカは軍事を必要とする相手国に援助して、それにより相手国がちゃんとした軍事力を身に着けて、アメリカと一緒に戦える体制をつくらせていこうということです。日本はその援助を受けて、着々と軍備増強を進めていきました。

アメリカからの軍事援助(資材、装備、軍事顧問など)によって「安全保障条約に基づいて負っている軍事的義務を履行することの決意を再確認するとともに、自国の政治および経済の安定を矛盾しない範囲で、その人力、資源、施設および一般的経済条件の許す限り、自国の防衛力および自由世界の防衛力の発展及び維持に寄与し、自国の防衛能力の増強に必要となることある全ての合理的な措置をとり、かつアメリカ合衆国政府が提供する全ての援助の効果的な利用を確保するための適当な措置を執るものとする」(第8条)

日米相互援助協定全文 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-251.pdf

また、それに付随して「日米農産物購入協定」というものがあります。これは、アメリカの余剰農産物を日本に買わせるが、代金は払わなくても良いから、そのお金を日本の防衛産業育成の資金にしなさいというものです。

私の場合、愛宕小学校3年生の時に学校給食が始まりました。あのころは脱脂粉乳でした。おふくろが調理員だったので、給食室に行くと、段ボールの管みたいなので作った背の高いドラム缶に斜めで横文字が書いてあったのを何となく思い出します。それを炒って、湯を足して混ぜて牛乳の代わりにしていたわけです。

僕はうまかったんです(笑) 飲めなくて吐き出した子もいたけど、塊をわざわざとってきて食べいました。貧しかったからかもしれませんが、香ばしい焦げた臭いが好きでした。今思えば、気分が悪いですね。あれ、余剰農産物と書いてあるでしょう。当時、アメリカでは牛乳が過剰生産になって、どう始末するかが問題になって、海に捨てたりもしたようですが、これを脱脂粉乳にして豚のエサにしようとしたところ、豚が下痢を起こして使えなくなったそうです。それなら、これを日本に買わせようということになったと、大人になって聞いて「くそ~」と思ったんですよね。

さて、1954年7月に保安庁が防衛庁に。保安隊が自衛隊になるわけです。

それから1957年5月には「国防の基本方針」が出されて、翌年1958年から防衛力整備計画がすすめられていきます。そういう準備をしたうえで、日米安保条約の改訂ということになっていきます。

2)現行の日米安全保障条約

1960年 1月19日  ワシントンで日米安全保障条約調印
      5月19日  衆議院で批准強行(議事録記載なし)
                  6月19日  自然成立
                  6月23日  発効

1960年1月19日 ワシントンで現行の日米安保条約が調印されました。そして、5月19日に衆議院で批准強行されました。

安保闘争といわれる大闘争の中で批准強行されます。最近の戦争法と同じで、議事録には採決したという記録はないのです。

そして6月19日に自然成立し、6月23日に発効となりました。

この6月23日というのは、奇しくも沖縄戦が終わった日とされている日です。沖縄の慰霊の日です。

時の首相は、安倍信三の祖父の岸信介。

最後に、当時の世相を見ると”ミッチーブーム”というのがありました。

「安保闘争」といわれる安保改定反対運動が激しさを増す中、現天皇が平民である正田美智子さんと婚約したことが話題となり社会現象となりました。

「カラスが鳴かない日があっても、マスメディアに皇太子と美智子さんの話が出ない日はない」といわれたぐらいでした。しかし、これは権力がマスメディアを使って作り出したブームでした。

こういう話があるのです。「安保条約の改訂が国会で山場を迎えようとする日に、この二人に子供を産ませよう。二人への祝福に国民の関心を反らせておいて、そのうちに安保を通せ」そうなるように逆算して結婚の日取りを決めた。そんなことまで権力はちゃんと考えてやる。ということです。

安保闘争の頃は、私はまだ中学生だったので、よく御存じの先輩方がたくさんいらっしゃいますから、またお話を伺いたいと思います。

で、いよいよ国会でワンワン ワンワンやっているときに、岸信介首相が、自衛隊に治安出動の待機命令を出していたそうです。いざとなったら、自衛隊が暴徒を押さえろと用意されていたわけです。

一方で、安保闘争の学生運動中で、東大の樺美智子さんが亡くなるいう事件もありました。その学生の安保闘争の裏で糸を引いていたのが、日本の右翼の田中清玄だったとか。

全学連の幹部に香山健一というのが居たのですが、後に学習院の大学教授になって、中曽根のブレーンになりました。

後になっていろいろ話を聞くのですが、そのように、極右が学生の中にしかけて、動かしてまともな民主主義の運動を叩き潰すようなこともやっていたということです。

岩国に米軍基地があるのは何故か?

歴史のそういう背景の中での岩国基地の存在ということを押さえておくことは必要なことだと思います。