住民投票を力に!米軍基地に翻弄され続けた岩国
2005年米軍再編に伴う「日米同盟:未来のための変革と再編」が発表され、その中には空母艦載機の厚木飛行場から岩国飛行場への移駐が盛り込まれていました。これが実現すると、米軍岩国基地のさらなる強化とNLP(夜間発着陸訓練)の激しい騒音が懸念されます。
「これ以上の基地負担は耐えられない」
2006年3月12日 岩国市民の民意を問う「艦載機移転案受け入れの是非を問う岩国市住民投票」が行われ、有権者の50%を超える投票率で成立。89%が反対票を投じ、空母艦載機移転反対の圧倒的民意が示されました。
米軍岩国基地の歴史
江戸時代、吉川広家が平地(農地)の少ない岩国藩の窮状を打開するため、干拓事業を行って作られたのが、現米軍基地がある川下(錦川下流のデルタ地帯)地区です。
岩国が軍事基地となったのは、日中戦争中の1938年、日本政府が川下地区を二束三文(1坪(3.3m)あたり35銭)で強制買収し、海軍基地を作ったのが始まりです。
敗戦と同時に、連合軍が進駐して基地は接収されました。1952年サンフランシスコ条約で日本は主権を回復することになりますが、同時に締結された日米安全保障条約により、米軍基地となり今に至っています。
滑走路沖合移設
岩国基地に駐留している米海兵隊は、「なぐりこみ部隊」といわれる最前線で戦闘をおこなう外征専門部隊です。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸、アフガニスタン、イラク戦争など岩国から出撃してます。
激しい爆音だけでなく、悲惨な戦場から帰還した兵士による犯罪にも苦しめられてきました。1968年九州大学にF4ファントムが墜落事故が起こり、全国的に反基地運動が盛り上がり、同機種が配備されていた岩国でも基地撤去の声が起こりました。
これに対し、基地依存勢力は騒音や墜落の危険を回避するため、基地撤去ではなく滑走路を沖合に移設する運動を進めてきました。1992年防衛施設庁が沖合1kに移設する事を決定し、1997年着工、2010年に新滑走路の運用が開始し、沖合移設事業は完了しました。
空母艦載機移駐と愛宕山米軍家族住宅
沖合移設のための土砂は、市内の愛宕山からベルトコンベアーで運ばれました。土砂を搬出した跡地には「21世紀型多機能都市」が出来るという触れ込みでした。
ところが、沖合移設が完成したとたん、地価の下落や住宅需要の低迷などの理由で、2009年愛宕山住宅団地開発事業を廃止し、4分の3を国に売却することが決まりました。
そして滑走路が沖合に移設し騒音が減少したことを理由に、厚木基地から岩国に空母艦載機移駐されることになりました。国に売却した愛宕山の土地には艦載機移転に伴う米軍家族住宅が建設されることが発表されたのです。
基地依存からの脱却
2006年3月12日 前・井原岩国市長が「艦載機移転の是非を問う岩国市住民投票」を発議し、反対多数で成立しました。住民投票直後の市長選挙でも、移転反対の井原市長が再選しました。
しかし、国は老朽化した市役所庁舎の建て替えの補助金を凍結するなど露骨な圧力をかけてきました。住民投票で示された民意とは裏腹、移転を受け入れ見返りを望む市議会と対立した市長は辞任し、再度選挙で民意を問いました。
2008年の出直し選挙では、移転容認の現・福田良彦岩国市長が井原氏を僅差で破って当選。2012年の市長選挙でも福田氏が再選しています。
住民投票から10年。岩国基地は今、クレーンが立ち並び建設ラッシュが続いています。滑走路は沖合に移設したけれど、米軍機の訓練空域は広がって、依然として激しい騒音が続いています。
艦載機の移転が完了すれば、岩国は100機以上の米軍機と1万人を超える米兵、米軍族、家族をかかえる、東アジア一の巨大米軍基地となります。
2015年、福田市長は建設ラッシュや民間空港開港の経済効果をうたい、岩国市政で初めて「基地との共存」を掲げました。
住民投票から丸十年になります。岩国で5団体が共同するのは初めての事です。私も頑張ります。